花粉が語る「里山」の歴史
−花粉分析のはなし2−

(岐阜県森林科学研究所)渡邉仁志


◆「里山」の研究
 近年、いわゆる「里山」への関心が高まっています。県内でも各地で市民グループによる森林ボランティアや里山整備の活動がはじまり、人々が身近な森林に接する機会が増えてきました。その一方で、環境省が最近まとめた里山保全状況の調査は、これら身近な自然が不法投棄や手入れ不足により荒廃し、危機的な状況にあると警告しています。
 ところで人々がいわゆる「里山」に関わってきた歴史は、地域、時代、そして土地に対する人々の要求により様々です。しかし現実には画一的な理想論が語られることも多いように思います。
 以前このコーナーで花粉分析という手法でみなさんを太古の森にご招待しました(岐阜県の林業2001・1月号)。花粉分析とは堆積物中の花粉の種類や量を調査し、過去の植生を推定する研究方法です。今度もそれに引き続き、もう少し身近な「里山」の歴史についてみてみたいと思います。

◆静岡県での研究例
 残念なことに県内で花粉分析を用いて「里山」の歴史を研究した例はありません。そこで筆者らが行った静岡県磐田市における研究を紹介し、人々がどのように「里山」と関わり、またそれによりどのように「里山」が移り変わってきたのかみてみます。

図ー1 磐田市の位置

 磐田市は静岡県の西部、天竜川の最下流部にあります(図−1)。古くから人々の生活が営まれ、古墳時代には、東国にありながら古墳の密集した地域であり、その後も遠江国の国府として、江戸時代には東海道の宿場町として発展してきました(サッカー好きの方にはあのチームの本拠地です)。

◆「里山」の歴史
 市の東端にある鶴ヶ池から、およそ3000年前以降の堆積物を採取し、縄文時代後期以降の植生の変遷を復元しました(表−1)。

表ー1 磐田地域における「里山の歴史」

1.縄文時代後期〜弥生時代
 シイやカシなど照葉樹が発達し、温帯性針葉樹(スギ)やコナラを交えた植生でした。近くの遺跡からどんぐりの貯蔵穴や栽培された可能性があるクリの根株が見つかっています。人々が自然の恵みに依存し、初期の栽培を行いながら生活していたことがうかがえます。なお花粉分析が示す森林は豊かであり、この生活様式が植生に与えた影響は少なかったと考えています。
2.古墳時代
 先駆樹種であるニヨウマツ類(アカマツなど)が急増することから、原生林の中に裸地的環境が出現したことが示唆されます。この地域では古墳の築造が盛んに行われました。地形改変と土砂移動、植生の破壊を伴う大土木工事であったと推測されます。この時代古墳が各所に出現することから、周辺の植生に直接影響する大きな要因になったようです。
 古墳時代の終焉とともに一時的に二次林が回復しますが、それもつかの間、その後「里山」が最も利用される時代がやってきます。
3.近世以降
 再びニヨウマツ類が分布を拡大し、長い間優占した時代です。さらに裸地を好む種類や踏み跡に生えるオオバコの花粉も出現します。池に大量の土砂供給があったことも分かりました。これらが示す植生はいわゆる「薪炭林」ではなく、もっと人為的な影響が強くおよんだものでした。草刈山・秣場(まぐさば)と呼ばれた採草地こそ、この時代の「里山」の姿です。歴史的経緯からみれば、規模は別として、長野県霧ヶ峰や熊本県阿蘇山麓の草原景観に相当します。採草地は肥料となる刈敷(かりしき)や薪の供給地であり、地域農業と人々の生活になくてはならないものでした。そのため常に人々の過剰利用という攪乱を受け、遷移初期の植生が維持され続けたのです。これは地元に伝わる江戸中期の古文書の「百姓林二町余小松立申候」という記述からも想像できるのです。
4.現在
 スギ・ヒノキ植林と常緑広葉樹二次林の時代です。化学肥料や化石燃料などの導入により地域資源の利用が少なくなった結果、遷移が進み地域植生が変わりつつあります。前の時代と比較して、人々と地域植生、言い換えれば「里山」との関わりが希薄になっているからにほかなりません。

◆おわりに
 「里山」の歴史を探る研究はまだはじまったばかりです。しかしこうした研究は、単に歴史を知るだけでなく「里山」の新しい利用や整備を考えるうえでも重要です。このような成果が各地で得られれば「里山」をもっと多面的にとらえることができるのではないでしょうか。機会があれば県内でも研究してみたいと思っています。


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